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始まりました。
この時期ですね。
丁度近所の夏祭りと被るという。
所で近所の夏祭りの案内アナウンスの人が
生まれて、2●年生きてきて、ずっと変わらないです。
安心感もありますが一体何者なんだ……。
この時期ですね。
丁度近所の夏祭りと被るという。
所で近所の夏祭りの案内アナウンスの人が
生まれて、2●年生きてきて、ずっと変わらないです。
安心感もありますが一体何者なんだ……。
・お祭りの話。
某所で、祭りの食べものは汚いし高い、と言ってました。
だがそれってどうよ。
はじめは自分も成るほどと思ったんですが
今日の祭りに晩御飯買いに行って思いました。
これは贅沢なことだ、と。
確かに砂とか、汚いかもしれない、相場も高いかもしれない。
しかし少なくとも近所でやっている夏祭りはそんな気がしないし
たとえ高かったとしても、それによって思い出プライスレスを
一緒に買っているんじゃなかろうか。
さり気なく買ったものでも、去年のと今年のものは違うし
一人で買ったとしてもそれが思い出になるんじゃなかろうか。
まあ……不味かった思い出もあるんですけどね。
・24HTV
こっちも夏の定番です。
ただ、(日本のお笑いは好きじゃないんだけども)
潔さから行けば28HTVのほうが好感はもてた。
しかし昨年辺りから某六角形が主導を握ったので微妙。
それはさておき
募金にするならそらじろうの24TVし様にすれば売れる
と思ったのもおいておいて
何より許せないのはテレビの前で涙を流すだけの偽善者がいるという事
テレビ見ないで募金をしたほうが
(そもそもあの番組に集まったお金の何割が募金になるの?)
よっぽど善だとおもう。
まあその善すら怪しいものだと思うひねくれもんなんですが……
というかそのお金もっとほしい人がいるよ!!
此処に!!
生活に困っている人たちを何とかしてくれと何度……
テレビがハロワいって何人もの労働者を出したら
信用してもいい。
テレビが孤独に住んでいるご老人と本当に打ち解けて
それが継続したなら信じてもいい。
家にすら帰れなくなった都会の若者、ワーキングプアたちを
永続的に助けることが出来るなら信じてもいい。
希望を人に与えることができたなら信じてもいい。
でも障害者(この言い方は色々論議がある)の人たちに
何かをやらせて、自分たちはこれが出来るよ!!
一生懸命やってるよ!!すごいでしょ!!
そして遠まわしにそんな自分が哀れだろうという
そんなつくりや、涙や、物語は要らない。
この子はたった●●才で命を落としてこれだけのこした、
というのも無価値じゃないのか?
同じ病気でおなじ年で死んで、でも何も残さなかったら
無意味なのか?
同じ病気で何かを残しても、年齢が上なら意味がないのか?
生命の価値を遺したもので決めて居無いか?
生命の価値
については自分の生涯の論点の一つかもしれないんだけれども
人間誰もが死を迎えて、まあ早期か、遅いかは兎も角
この世界からロストする訳ですが。
殆どの人間は墓石の名前すら消えていく塵のような存在なわけです。
DQ8の某聖職者にいわく、
「墓は死んだものの為にあるんじゃない、
のこされたものの為にあるんだ」
という言葉が非常に沁みます。
ですがそれもたった数代で終わってしまう。
名前が残るのなんて、書物に名前がのった、
それもみなに知られるべき書物に名前がのった人だけです。
そんなのたかが知れた人数。
志の為に、大きな何かの過程の為に生きる人もいるでしょう
(勝手にお借りして申し訳ありませんが
ぴくのくのSさんがこのタイプです。)
名声を只管目指す人もいるでしょう。
名前は要らない、何かの証がほしいという人もいます。
しかしそれに適う能力がないと多くの人が
悟らねばならない日がくるわけです。
そのとき人はどうするか。
そもそもそんな事を考える余裕など無しに人間は社会に出ます。
だから時間に終われ考えている暇はありません。
仕事があるからです。
けれどもすりかえられるのはまだ幸福かもしれません。
それに絶望したら果たして人間に生きる価値はあるのか。
そんなことを考えます。
人間の命は一つだという人がよくいます。
周りから思われていない人間など居無いと。
そうなんでしょうか。
そんなの綺麗ごとじゃないですか?
これをかいている人間が果たしてどんな答えをもっているか
それは内緒です。
しかし今日は長い上に、しかしとかでもとか異常におおいな。
もっと表現の勉強してきます。
某所で、祭りの食べものは汚いし高い、と言ってました。
だがそれってどうよ。
はじめは自分も成るほどと思ったんですが
今日の祭りに晩御飯買いに行って思いました。
これは贅沢なことだ、と。
確かに砂とか、汚いかもしれない、相場も高いかもしれない。
しかし少なくとも近所でやっている夏祭りはそんな気がしないし
たとえ高かったとしても、それによって思い出プライスレスを
一緒に買っているんじゃなかろうか。
さり気なく買ったものでも、去年のと今年のものは違うし
一人で買ったとしてもそれが思い出になるんじゃなかろうか。
まあ……不味かった思い出もあるんですけどね。
・24HTV
こっちも夏の定番です。
ただ、(日本のお笑いは好きじゃないんだけども)
潔さから行けば28HTVのほうが好感はもてた。
しかし昨年辺りから某六角形が主導を握ったので微妙。
それはさておき
募金にするならそらじろうの24TVし様にすれば売れる
と思ったのもおいておいて
何より許せないのはテレビの前で涙を流すだけの偽善者がいるという事
テレビ見ないで募金をしたほうが
(そもそもあの番組に集まったお金の何割が募金になるの?)
よっぽど善だとおもう。
まあその善すら怪しいものだと思うひねくれもんなんですが……
というかそのお金もっとほしい人がいるよ!!
此処に!!
生活に困っている人たちを何とかしてくれと何度……
テレビがハロワいって何人もの労働者を出したら
信用してもいい。
テレビが孤独に住んでいるご老人と本当に打ち解けて
それが継続したなら信じてもいい。
家にすら帰れなくなった都会の若者、ワーキングプアたちを
永続的に助けることが出来るなら信じてもいい。
希望を人に与えることができたなら信じてもいい。
でも障害者(この言い方は色々論議がある)の人たちに
何かをやらせて、自分たちはこれが出来るよ!!
一生懸命やってるよ!!すごいでしょ!!
そして遠まわしにそんな自分が哀れだろうという
そんなつくりや、涙や、物語は要らない。
この子はたった●●才で命を落としてこれだけのこした、
というのも無価値じゃないのか?
同じ病気でおなじ年で死んで、でも何も残さなかったら
無意味なのか?
同じ病気で何かを残しても、年齢が上なら意味がないのか?
生命の価値を遺したもので決めて居無いか?
生命の価値
については自分の生涯の論点の一つかもしれないんだけれども
人間誰もが死を迎えて、まあ早期か、遅いかは兎も角
この世界からロストする訳ですが。
殆どの人間は墓石の名前すら消えていく塵のような存在なわけです。
DQ8の某聖職者にいわく、
「墓は死んだものの為にあるんじゃない、
のこされたものの為にあるんだ」
という言葉が非常に沁みます。
ですがそれもたった数代で終わってしまう。
名前が残るのなんて、書物に名前がのった、
それもみなに知られるべき書物に名前がのった人だけです。
そんなのたかが知れた人数。
志の為に、大きな何かの過程の為に生きる人もいるでしょう
(勝手にお借りして申し訳ありませんが
ぴくのくのSさんがこのタイプです。)
名声を只管目指す人もいるでしょう。
名前は要らない、何かの証がほしいという人もいます。
しかしそれに適う能力がないと多くの人が
悟らねばならない日がくるわけです。
そのとき人はどうするか。
そもそもそんな事を考える余裕など無しに人間は社会に出ます。
だから時間に終われ考えている暇はありません。
仕事があるからです。
けれどもすりかえられるのはまだ幸福かもしれません。
それに絶望したら果たして人間に生きる価値はあるのか。
そんなことを考えます。
人間の命は一つだという人がよくいます。
周りから思われていない人間など居無いと。
そうなんでしょうか。
そんなの綺麗ごとじゃないですか?
これをかいている人間が果たしてどんな答えをもっているか
それは内緒です。
しかし今日は長い上に、しかしとかでもとか異常におおいな。
もっと表現の勉強してきます。
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